カリフォルニアにおける、初めての日本語によるミサは1912年のクリスマスの日、アルバート ブレトン神父によって、ジャクソン通り711番の開拓地の聖堂において行われた。レオ クマタロウ ハタケヤマ氏が、アレクサンダー ベルリオース司教(MEP)に宛てた手紙の結果だった。彼は日本語を話す司祭がまわりにいないため、手紙で告解ができないかをたずねたのであった。その結果カリフォルニアにいる日本人のために、函館にいたブレトン神父がベルリオース司教(MEP)によって遣わされた。これによってアメリカにいる日本人のための宣教がささやかにも開始されたのであった。
当時ロサンゼルスの人口は30万人、そのうち1万人が日本人であった。ブレトン神父は応援を依頼し、1915年8人の女性たちが長崎から応援のために訪れた。これが今の禅宗寺の場所から程遠くない133 South Hewitt 通りに場所を構えた聖フランシスコ ザビエルスクールの前身である。
活動が広がるにつれ、ボイル通りに日本人孤児のための家、1920年に到着したメリノール修道女会の建物も建てられた。ブレトン神父は1921年に日本へ帰国、メリノール会の司祭たちがロサンゼルスにいる日本人のために働くように要請された。1920年、初めに要請を受けたのが、メリノール会のジョージ スタウブ神父であった。続いて1927年ヒュー ラブリー神父が訪れ、1935年司牧活動の総括を担い、以降29年間ロサンゼルスにいる日本人のために働いた。
現在の教会所在地である 226 South Hewitt Streetの土地は5000ドルで購入され、鉄筋コンクリート作りの2階建ての建物は29553ドルかけ建立された。1921年にはメリノール学校が誕生し、1922年までに200人の子供たちが学ぶまでになった。1930年には3階部分が増設された。一階部分は平日は教室として、日曜日には聖堂として使われた。敷地角地にある聖堂建立地は1930年1万ドルで購入され、18000ドルをかけ、1939年聖堂が完成する。司祭館と講堂は1930年代後半に建立され、メリノール会が指揮を執った。
1941年12月7日パールハーバーが爆撃されると、今までの犠牲や努力が無に帰するかのごとくの悲運に遭遇した。戦慄がアメリカ中を襲い、1942年アメリカ政府は何千人もの日本人を強制収容所へ送りこんだ。その中でメリノール会の司祭、修道士、修道女は慰めと癒しを与えるために働いた。西海岸のメリノール会の活動は危険視され、さらに11万人もの人々が別の場所へと収容されることになったが、戦争が終わると日本人は元の地に戻り始め、ヒュー ラブリー神父はそれらの人々を歓迎した。
1960年メリノール学校の建物は老朽化のため、市の安全の基準を満たせなくなっていた。そこで1963年11月新しい建物の建設が始まり、1964年5月、413人の生徒は新しい建物を使用できるようになった。
1970年から80年代にかけて、メリノール学校に入学するものの数は徐々に減って行き、日系アメリカ人の家庭は徐々に子弟を自宅の近くの学校へ通わせるようになっていった。そのためメリノール学校の生徒は、おもに親が市庁舎で働くものたちの子弟が通ってくる学校となっていた。1994年には教会メンバーの家庭の子弟は3家族だけという状況にもなってしまった。メリノール学校は一世達が思い描いた、日本の伝統、言葉、文化を受け継ぐための学校という色彩を失わせていった。
先人の意思を大切に守るために、教会の代表委員たちはロサンゼルス大司教区に対して、日系社会全般、そして日本語と英語を話す人々のための司牧のための施設として、メリノール日系カトリックセンター(MJCC)の維持を依頼した。大司教区はその依頼を幸運にも受諾してくれた。ここに学校は閉鎖されたが、新しい使命を担うセンターが存続することになった。
メリノール日系カトリックセンターは1995年9月24日設立された。1996年6月メリノール会はその使命を終え、1997年8月、アトーンメント会のヘンリー メイアー神父とデービット ドーナー神父にその任務を引き継ぐことになった。1998年にはここに長崎出身で4代に渡ってのカトリック信者の家庭に育ったのアブラハム田畑孝之神父(OFM)が日本人の司牧と英語の研修を兼ね、ヘンリー神父とドーニエ神父に加わり、MJCCのコンピュータに日本語ソフトをインストールしたり、日本語のコンピュータクラスも開講した。また1974年日本から来られていた、御聖体の宣教クララ修道会のシスター セシリア中島はすでにレビー神父に日本人のための聖書研究を依頼され、Our Lady Help of Christianの小、中学校で校長として教鞭をとられる傍ら、日本人の布教活動に専念されていた。同時にシスター中島は、病気や家庭で静養中の者の宣教にも努め、現在はロサンゼルス大司教区児童虐待保護の専属委員、また他民族奉仕局の日本人代表顧問をされ、教会のさまざまな布教活動を担当するなど、精力的に活動中である。2000年にはヘンリー神父と田畑神父はMJCCを去ったが、MJCCには新たに日本の広島教区から来られた瀧井英明神父が加わった。
2001年には始めてウエッブサイトの運営を開始した。2002年、メリノール空手クラブは40周年を祝った。すしシェフの学校、幼児から青少年の児童を教える公文方式で有名な学校、公文も当センターに開講し、またダンスを始め、会話、詩吟、いけばな、書道、体操やヨガのクラスが平日開講されている。
2004年アトーンメント会のデービット ドーナー神父の退職に伴い、40年間日本でカトリック ニュースサービスの支局員として活動する傍ら、布教にもたずさわってこられたジム コリガン神父とロヨラ メリーマウント大学の神学教授であるジム フレデリックス神父という二人の日本語に堪能な司祭がミサをあげてくれるようになった。3月にはロジャー マホニー枢機卿が3世4世の若者と大人たちのために堅信式を自ら挙げてくれるという、めったにない栄誉にも預かった。
2005年長崎で生まれ、東京教区のカテドラルで主任司祭をされていたピーター岩橋淳一神父はサバティカルに伴い監督者として当教会に赴任された。2006年にはジョン満留功次神父が監督者ならびに司教代理という立場で布教にあたられた。ジョン満留功次神父の時、大司教区は教会で使用する名前を昔の聖フランシスコザビエルに戻すように依頼、以降当センターは聖フランシスコ ザビエル日系カトリックセンターと名前を変えた。
2007年満留功次神父の退任に伴い、12月リチャード ホインズ神父が大司教区から監督者のとしての任務を命じられた。
2008年10月信者の有志によって、信者と周辺住民への奉仕のため、聖フランシスコ ザビエル付設グループが結成され、宗教的、社会的活動を通して青少年の育成にもあたっている。この付設グループは、信者同士の個人的関係と教会のさらなる発展のために、友好的で誰をも歓迎するという精神をもって活動している。2009年4月、若い人たちの提案で13歳から25歳くらいまでの若者たちの必要性にこたえるため、教会付設のユースグループも誕生することになった。
2012年12月25日で教会設立百周年を迎えるに当たり2012年11月25日にホセ・ゴメス大司教様とリチャード・ホインズ神父様の共同司式により記念ミサが捧げられました。 祝賀会はコマース市にあるSteven’s Steakhouseで行われました。2012年12月25日のクリスマスの日に200人を超える教会信徒と共に記念写真を撮影しました。
百周年祭に当って、イタリア巡礼、アクティビティ・センターからメリノール・アクティビティ・センターへの再奉納式等の沢山の催し物を行いました。2014年10月に百年祭の記念アルバムを発行致しました。
2015年には、講堂の銘板ができあがりました。ヒュー ラブリーM.M.神父を追悼しメリノール講堂と名前を変更しました。ヒュー ラブリーM.M.神父の記念銘板は講堂内にあります。
近年、周辺市域の開発が急ピッチで進み、豪華なマンションや芸術家たちの住居も増えている。近隣には人気のあるレストランもお目見えしている。私たちの教会も変化しつつあり、新しい顔、仲間たち、行事が増えつつある。
2015年7月にドアン・ホアンS.J.神父様が当教会に赴任されました。リチャード神父様の入院中ドアン神父様は助任司祭として当教会の為に奉仕して下さいました。2016年6月リチャード・ホインズ神父様は帰天なさいました。ドアン・ホアン神父様は現在当教会の主任司祭です。
2015年11月にチュウ・ノーS.J.神父様が当教会の助任司祭として赴任してきました。チュウ神父様は非常勤として当教会で働く傍らホームレスの支援の仕事も続けています。
2019年11月には当教会で長年ボランティアをして下さっていた高橋ジョージさんが帰天なさいました。高橋さんは当教会、ロサンゼルス大司教区のエスニック・グループの日系代表、ボーイスカウト145団として当教会の為に務めて下さいました。
当教会の詳しい沿革は司祭館事務所までお問い合わせ下さい。
Copyright © 2023 St. Francis Xavier Chapel - Japanese Catholic Center - All Rights Reserved.